ブログをはじめて6年目。fc2に移ってきて3年目になります。
とくにfc2に参加させていただくようになってから、
大人になってからピアノを始められた方やら
途中、受験や部活やお仕事で、中断されて、また再開された方など
ほんとうに、たくさんの方がピアノを愛して・楽しんでいらっしゃるいるのをを拝読し
ピアノを愛するもののひとりとして、しみじみと「うれしいなぁ」と思います。
と、申しますのは、ブログを始める直前。
ひとときですけれど・・・
楽器演奏・・ことにクラシック音楽というものは
いったい本当の意味で「愛されて」いるのだろうか?
と、とてもとても悩んだものですから。
だから、こうしていろいろな方々と交流できることが
ほんとうに、うれしくてたまらないのだろうな♪
と、思うのです。
まっすぐにピアノ一筋!というと聞こえは良いのですが
つまりピアノ以外なぁ~~んにも知らない(恥)私にとって
オシゴトをしつつ、ピアノを楽しまれている姿に尊敬でいっぱいになります。
私だったら、疲れちゃって、なにもしなさそうだもの。。。(恥~)
さて、そんな「ピアノだけ人生」を生きてきて
だいぶ前から、とても不思議なことがあります。
それは、レッスンでは言葉にすることはないであろうと思われること
つまり「手から手へ「音」でだけで伝えられる」ことどもが
専門用語を駆使して「すべて言葉で」議論されていることです。
たとえば、「奏法」「脱力」「はいふぃんがー」「テンポルバード」などなど・・・。
もちろん「ブログ」というのは言葉で伝えるツールだから、ともいえますが
どうも「言葉そのもの」にとらわれ過ぎているように思えるし
なによりも「用語」として定着してしまって、本来の意味からずれているのでは?と
そう思うことが、しばしばあるのです。
「音楽の場」であるレッスン室では、ほとんどは「言葉にされることはない」のは当たり前。
レッスンとは「先生に曲を『いただく』」ことにはじまり、(何を勉強させたいか?と選んでくださるわけで)
そこから始まる「音伝え」のことどもは、すべて「曲を仕上げるため」に捧げられます。
「この曲をどう弾くか?」という問題についてあらゆる角度からアプローチをすること。
そこから、次の曲にもつながる「なにか」を見つけること。それが「弟子」のオシゴト。
(できていなければ、たちまち「破門!」というオシゴトです。ぶるぶるぶるrrr)
一方で「先生」と呼ばれる方々は、それをとてもとても高い場所からながめ
「その道でよい」とか「そこは行き止まり!」とか指示を出してくださる存在。。。
その場では理解しきれないこともたくさん!
何十年もたってから「ああ!そうだった!」なぁんておもったり。
でも「あのときの『音』はどうだったか?どうあるべきか?」は
耳の中身(三半規管?)が記憶しているのですよね。(できるかできないかは別!)
先生選び・・・という言葉もかつての私には「ありえない」ことだったかもしれない。
コンクールや公開レッスンなどを受けるところまでは、自分の意思でもありましたが
「レッスンに来てもよろしい」という先生のお許しがなければ、先は開けないのですから。
そうしてたどり着いた恩師は
「奏法」という言葉を含む御著書のある先生でしたが
「正しい奏法」ということを、おっしゃったことはなかったように思います。
(練習法の「提案」として「わたくしの方法」というのはありましたが)
もちろんもちろん!、たくさんの曲を教えていただく中で
「そこは違う」というのは、もうしょっちゅうなのでしたがぁあああ(滝汗)
そして「すべては楽譜に書いてある」「しっかり読み取りなさい」ということは
どの先生もおっしゃることでした。
もしかして?
「楽譜通り」と言ったときに、「あいうえお・かきくけこ」といった「書き方の教則本」
みたいに思ってしまうことはありませんか?
いいえ、どんな曲も(練習曲でさえ!)その作曲家が思いを込めて書き残したものですもの。
「いまこの曲のここ」を「どう表現したいか」という「強い意思」さえ持っていれば
「楽譜通り弾く」が「無個性で機械的」ということと同じであるなんて、思うことはないでしょう。
えぇ!きっぱりと!
心からの「NO!」を!ね?
たとえば。。ね。
「奏法」のお話を例にとってみましょうか。
↓の絵をご覧ください。
「天使が演奏」するほどに「3本指奏法」が「正統派」だったころの絵です。
「親指&小指を使わない奏法」の時代。
それは、大バッハよりも、ほんの少しだけ前のこと。。。

この当時は、オルガンやチェンバロを演奏するにあたり
「親指をくぐらせるなんて不自然な動きだ」
とされていたのですよ。(←本当です!)
おなじ理由で、親指と小指は「短いから演奏に不適切である」
とされてもいたのです。
だから、古いコラールなどは、3本指で演奏できる曲が多いです。
でも、この鍵盤数の楽器で、コラールみたいな曲ばかりならいいけど。。。ねぇ?
当然、人は「もっと速く・もっと壮大に」と音楽の世界を広げていきました。
さて、↓の演奏では、↑よりすこし後の時代、スカルラッティがお聞きいただけます。
ところがところが?「テンポルバート」的な響きが散見されます。ね?
これは「個性」なのでしょうか?
「ほらね。楽譜通りに演奏するなんてプロじゃないでしょう?」
ということなのでしょうか?
いいえ!いいえ!!
これは、この曲が書かれた時代の様式・演奏上の約束などを熟知した人だけが、たどりつける場所。
和音の流れやメロディーのしくみから、チェンバロなどで演奏するとしたら
「どうしたってこうなるでしょう?」という「間」をとっているのです。
その後、響きを整えピアノという「別な時代の鍵盤楽器」で表現するという試みなのでした。
くりかえしになりますが、「すべて楽譜に書いてある」のです。
再現音楽の楽しみというのは、その楽譜からどれだけ多くの「謎」を読み解いて、
現実の世界に響かせるのか?につきると思われます。
というわけで、本日も「楽譜を読み解く」ことをして遊ぶことにいたしましょう。
さて、サロン華やかなりし時代(後期ロマン派)に育った↑の演奏家は
戦争という悲劇の「おかげ」で、かなりストレートかつアカデミックな形で日本に伝えられました。
すでに太平洋戦争が勃発していることをご存じで、それなのに
「生徒たちが待っているから」と、戦火の海を渡って日本に帰ってきた方です。
レオ・シロタ氏。ブゾーニ(彼の師匠)から「リスト(ブゾーニの師匠)の再来」と言われた方。
彼をはじめ、戦中戦後を通して、命をかけて「音楽」を伝えてくださった皆様がいて
そして、それを全力で吸収しようとした当時の日本の音楽家たちがいて。。。。
そうやって
現在の日本の「ぴあのらいふ」の根幹は作られているのだなぁ。。
としみじみと思います。
次回はそんな方々のお話を、すこし詳しくいたしませう。
と・・・ちょいとお話をひっぱりますゆえ
本日の「おまけ」はこちら。
おそらく使用楽器はブリュートナーと思われます。
この演奏が「戦後日本の録音によるもので、ご本人は栄養失調で最悪の体調だった。。なんて
誰が思います????
そういった方々が「願った未来」に生きている私たちですもの。
どうぞ、小手先のトリックなどにまどわされず
安心して「楽譜世界」に遊んでくださいませ。
そこにはきっと「楽しい明日」が待っていると思います。
どうぞ、どうぞ、ますます楽しいピアノライフを♪
鍵盤屋としては、心からそう思うのです。